中央区、江東区 永代橋

一人の武士のとっさの機転 永代橋落下事故

永代橋が崩れ落ちたとき、一人の侍の機転が多くの命を救った

一人の武士のとっさの機転 永代橋落下事故

(話し手)落語家 桂竹千代さん

桂竹千代

話し手は、日本の古代史にめっぽう詳しい噺家、桂竹千代さんです。なんと大学院で古代文学を勉強した異色の噺家。 噺家の誰よりも歴史を実直に学んだ桂竹千代の語り口は、庶民の人情を伝える際にも、偉人の物語を伝える際にも、知識に裏打ちされた自信を感じさせる。

徳川家康が戦いの世を終わらせて、日本には平和な時代がやってきました。徳川家康以後、徳川家の人間が政権を担っている時代を江戸時代と呼びます。この呼び名は、徳川政権の首都である江戸(現在の東京)にちなんでいます。この江戸時代は、約260年続きますが、徳川政権が終わるときに反徳川勢力との間で戦いが発生するまではほとんど戦がありませんでした。 そのため、江戸時代の武士は刀を使う機会もほとんどありませんでした。むしろ、理由なく刀を抜くと処罰されたのです。刀を抜くときは、相手を討ち果たさねばならないとされ、その覚悟がなければ刀を抜いてはならないと決められていました。ですから、相手を討ち果たすことができなかったら、最悪切腹の可能性もあったのです。また、理由なく刀を抜いても処罰されるわけですから、江戸時代の武士は刀を抜くのに相当な覚悟が必要でした。 そのような平和な江戸時代ですから、戦もないので人々は生活を楽しむ余裕がありました。庶民も武士も仕事の合間に江戸の町の中で景色の良い場所に出かけたり、神社やお寺にお参りに行ったりして生活を楽しんでいました。その中で人気スポットだったのが、永代橋でした。 今と違って高層建築などない江戸時代に、この永代橋は、富士山や筑波山、箱根の山や房総半島を眺めることができるビュースポットだったそうです。 また、永代橋は深川の富岡八幡宮も近く、江戸の町から参拝に向かう人がこの永代橋を通るため普段から非常に賑わっていました。 しかし、当時の橋は木製です。多くの人が行きかうということは、それだけ損耗が激しいということでした。そのため、永代橋を維持するためには架け替えを行わなければなりませんでした。ところが徳川政権は、コストを考えて永代橋を取り壊そうと考えていました。 しかし、江戸の町の人々は便利な橋がなくなることは不便だと思い、徳川政権に掛け合って永代橋の管理を町民が行うことを申し出ました。徳川政権もそれを認め、永代橋は存続されることになったのです。 1807年、富岡八幡宮のお祭りがある日にも、永代橋には多くの人が詰めかけていました。 橋の上は人が滞り、なかなか前に進みません。そこで事件が起こりました。 ある一人の武士が橋の袂で急に刀を抜き、橋を渡ろうとする町民に刀を向けてきたのです。 町人はこの武士を恐れて、橋を渡ろうとするのを止めました。 この武士は、江戸南町奉行の役人で渡辺小左衛門と言いました。 当時、武士が刀を抜けば処罰をされる可能性もあったのに、なぜ渡辺小左衛門は刀を抜いたのでしょうか。そして、なぜ町人を脅したのでしょうか。      

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