港区 増上寺
豆腐の恩を忘れない 大学者徂徠先生と豆腐屋
大学者・荻生徂徠と豆腐屋の不思議な縁
(話し手)講談師 神田山緑さん
話し手は、NHKでも講談をお話しをされている、新進気鋭の講談師、江戸の香りをたっぷりと含んだその話しっぷりは見事、真打、神田山緑さんです。
どのような天才や英雄、豪傑であろうとも不遇の時代というものがあります。
例えば、1580年代~90年代にかけて日本を掌握した天下人・豊臣秀吉も、織田信長に仕える前は足軽として、今川家家臣の松下嘉兵衛に仕えていました。ここで、豊臣秀吉はたいへん世話になったと恩を感じていました。そこで、天下を掌握したあと、松下嘉兵衛を探し出し、領地を与えて取り立て、恩義に報いたという話もあります。
一方で、中国の春秋・戦国時代の天才軍師・太公望呂尚は、芽が出ない浪人時代に妻から愛想をつかされ、離婚しました。その後、周の武王を補佐して殷を滅ぼし、斉の王になりますが、この時、妻が復縁を求めてきても断ったという話もあります。
人の能力を図るのは難しいものですが、できることから人が困っている時には助けてあげた方がよいこともあるようです。
さて、徳川政権下の江戸時代、1690年代のことです。この時、荻生徂徠という偉い学者がいました。5代将軍の徳川綱吉の側近であった柳沢吉保に才能を認められて、世に出ることになりました。また、8代将軍の徳川吉宗からの信任も得て、そのブレーンとして活躍しました。
この荻生徂徠ですが、幼い頃から天才の誉れ高い子どもでした。将来を期待されていましたが、父親は当時仕えていた舘林藩主の徳川綱吉(後の5代将軍)の怒りを買い、追放されてしまいました。荻生徂徠は、父とともに上総(現在の千葉県の一部)に移りました。ここで、あらゆる書物を良い機会を得て、学者として大成する土台を築きます。
その後、1692年に許されて江戸に入ることでできました。この時、荻生徂徠もひとかどの学者になっていました。そこで、芝の増上寺の近くに塾を開いて学問を教えようとしましたが、最初のころは入塾者がなく、貧乏にあえいでいました。
荻生徂徠は、貧しい暮らしの中で、豆腐屋からつけで買い物をします。しかし、何日もお金が入らず、豆腐屋への借金が増えるばかりでした。荻生徂徠は、正直にお金がないことを詫び、出世したら必ず払うことを豆腐屋に約束しました。
豆腐屋は、正直な荻生徂徠の人柄を信じ、荻生徂徠の申し出を受け入れました。さて、その後、豆腐屋は毎日荻生徂徠の許に豆腐を運んでいきました。ところがある日、豆腐屋が火事で店が焼けてしまったのです。困った豆腐屋の許に現れたのは、貧乏のためにつけで豆腐を毎日運んでいた荻生徂徠でした。この時、荻生徂徠が豆腐屋に申し出たこととは。
徂徠豆腐のエピソード、どうぞ本編をお楽しみください。