台東区 谷中霊園
最後の将軍 徳川慶喜
江戸城無血開城に至った将軍・慶喜の胸の内とは
(話し手)講談師 神田あおいさん
話し手はなんと女性講談師、真打・神田あおいさん。 JALの機内番組でもお話しをされた、まさに日本を代表する女性講談師です。 ハリ、ツヤともぴか一の名調子。聴いている者をグイグイと講談の世界に引き込む技はさすがです。
徳川政権の最後の将軍 15代の徳川慶喜は評価がわかれる人物です。徳川政権を滅ぼした人物と言われる一方、自分が負けることで日本が真っ二つに割れる内乱を避けた立派な人物といった具合です。
この徳川慶喜ですが、実は徳川政権を樹立した初代将軍 徳川家康の再来と言われ、期待された将軍でした。西洋の考えにも理解を示し、軍隊や政治制度の洋式化を推進しました。海軍の拡張にも力を入れ、徳川海軍を東洋一と言われるまでにしていきました。
これだけの人物でしたので、徳川政権を支える側の人間は徳川慶喜に大いに期待しました。一方、薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)などの徳川政権を倒そうとする側の人間は、徳川慶喜を警戒しました。そこで、徳川慶喜は、1867年、反徳川政権の側の人間との勝負をかけた大政奉還に打って出ました。これまで日本の政治を担当してきた徳川政権が、日本を統治する権限を反徳川政権側がよりどころにしている朝廷に返上するという奇策に出たのです。これまで日本を統治したことのない朝廷や天皇に政治は無理だとなったら、徳川慶喜の力が求められる。その時に、反徳川政権の人間の発言権はなくなって、再び日本の政治を行えると考えたのです。
しかし、徳川慶喜の考えに反して、、朝廷は政権を受け入れ、自分たちで政治を行うと宣言しました。そして、徳川慶喜に徳川家の領地を返上するように求めてきたのです。徳川家には多くの武士が仕えていました。領地を返上すれば、彼らを浪人(主君のいない武士)にしてしまいます。ここで、ついに徳川慶喜は、反徳川政権側の人間を戦で追いやり、朝廷や天皇と連携して政治を行っていく決意をしました。
1868年1月、徳川軍と反徳川軍が、京都の南にある鳥羽 伏見で戦争を開始しました。数の上では徳川軍が有利でしたが、反徳川軍の薩摩や長州は、武器を近代化させており、両軍一進一退の攻防が続きました。
そして、1月5日、反徳川政権の側に錦旗と呼ばれる天皇家の旗が翻りました。これは、天皇が反徳川方についたということを意味しました。実は日本では、天皇は武士よりも尊いと考える尊皇思想という考えがありました。天皇に対して戦うことは、賊となって日本の中で味方を失うことを意味したのです。しかも、この尊皇思想は徳川慶喜が生まれた水戸藩(現在の茨城県水戸市を中心とした地域)から日本中に広まった思想でした。徳川慶喜も父から何度も教えられている思想です。その対象である天皇が、自分を敵として攻めてくる。こう考えた徳川慶喜は、世界でも例のない大きな決断を下したのです。徳川慶喜の苦悩と決断、ぜひ本編をご覧になってください。