墨田区両国 両国橋
仇討ち前夜、両国橋での子弟の出会い。 大高源吾
日本で最も有名な仇討ちの前夜、一人の侍が旧友に出会った。
(話し手)講談師 神田あおいさん
話し手はなんと女性講談師、真打・神田あおいさん。 JALの機内番組でもお話しをされた、まさに日本を代表する女性講談師です。 ハリ、ツヤともぴか一の名調子。聴いている者をグイグイと講談の世界に引き込む技はさすがです。
東京都墨田区両国と東京都中央区東日本橋を結ぶ両国橋。この橋がかかる隅田川を境にして、武蔵国と下総国に別れていました。そして、両方の国にかかる橋というわけで、「両国橋」という名前になりました。
この両国橋ですが、忠臣蔵の舞台になった場所としても有名です。忠臣蔵は、日本でも人気のあるお話です。1701年3月14日、江戸城の松の廊下で、赤穂藩(今の兵庫県赤穂市)の殿様である浅野内匠頭が、吉良上野介を刀で斬って負傷させるという事件が起きました。
将軍である徳川綱吉もいる江戸城では、理由なく刀を抜いてはいけない決まりでしたが、それを破った上で、さらに人を傷つけることは赦されるものではありません。そのため、浅野内匠頭には切腹の命が下りました。さらに、赤穂藩は取り潰されました。赤穂藩の侍たちに急に仕える殿様がいない浪人となったのです。
一方、吉良上野介には何の罰もありませんでした。当時、吉良上野介が、浅野内匠頭をいじめていたという話もありました。武士の間では喧嘩両成敗というルールがありました。。喧嘩の当事者には、同じ罰を与えるというルールです。しかし、浅野内匠頭と吉良上野介の間ではこのルールが守られませんでした。
そこで、赤穂藩の家老(今でいえば大臣のような存在)であった大石内蔵助が中心になって、吉良上野介を討って、浅野内匠頭の敵討ちをしようと考えていたのです。
その敵討ちを狙う赤穂浪士の一人に、大高源吾という武士がいました。大高源吾は、俳句の才能がありました。中でも、俳句の第一人者である松尾芭蕉の一番弟子である宝井其角という人物が、大高源吾の才能を評価していました。
こうした俳句の先生たちは、大名の家から招かれて句会という俳句を作りあう会を開くことがよくありました。この俳句で培った人脈を使って、大高源吾は吉良上野介の動向を探ろうと考えました。
そしてついに大高源吾は、1702年12月14日に吉良上野介の屋敷で茶道を嗜む茶会が開かれることを突き止めました。
1702年12月14日の昼、大高源吾は両国橋で行商人の恰好をして、吉良上野介の屋敷の偵察を行っていました。両国橋から吉良上野介の屋敷がよく見えたのです。すると、宝井其角が、両国橋を通りかかります。宝井其角は、大高源吾が武士の恰好ではなく、行商人の恰好をしていることに驚きました。もちろん、大高源吾が赤穂藩士で仕えていた家がなくなってしまったことは知っていました。
大高源吾が生活に困っていると思った宝井其角は、「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と謳いました。俳句や短歌に通じている人たちの間では、俳句や短歌で挨拶や心のやりとりを交わすことがあったのです。
さて、宝井其角に大高源吾はどう返したのか。そして、大高源吾が宝井其角に伝えたかった想いとは何だったのでしょうか。