墨田区両国 吉良邸跡
最も有名な仇討ち 赤穂義士の討ち入り
日本で最も有名な仇討ち。 47人の侍が主君の敵討ちに!
(話し手)講談師 神田あおいさん
話し手はなんと女性講談師、真打・神田あおいさん。 JALの機内番組でもお話しをされた、まさに日本を代表する女性講談師です。 ハリ、ツヤともぴか一の名調子。聴いている者をグイグイと講談の世界に引き込む技はさすがです。
1701年3月14日、江戸城松の廊下において、赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家・吉良上野介に斬りかかるという事件が発生しました。
この事件の原因は不明です。なぜならば、江戸城に天皇家からの勅使(使者)が来ている日に刃傷事件を起こした浅野内匠頭に対し、5代将軍徳川綱吉は激怒し取り調べも行わないまま、浅野内匠頭に即日切腹を命じました。そして、赤穂藩も取り潰しとなったのです。一方の吉良上野介には何の咎めもありませんでした。
当時、武士の間のルールに「喧嘩両成敗」というものがありました。喧嘩が発生した場合に、喧嘩した双方に処罰を下すというルールのことです。このルールからすれば、浅野内匠頭の側に一方的に処罰が偏っていました。しかし、この時、赤穂藩を代表した大石内蔵助は、徳川政権の裁定に従い、赤穂城を明け渡しました。しかし、大石内蔵助は心に密かな考えをもっていたのです。
大石内蔵助がまず動いたのは、浅野家の再興でした。浅野内匠頭の弟、浅野大学を主君にして、再び浅野家を復活させようと考えたのです。しかし、徳川政権は浅野大学に蟄居を命じました。赤穂浅野家の再興はないという徳川政権の意思表示でした。
ここにいたって、大石内蔵助は、もう1つの行動を決意します。それが、仇討ちでした。
浅野内匠頭への処罰の不当性を訴え、喧嘩両成敗の原則に基づいての処罰を求めるために、吉良上野介の命を狙ったのです。
この時、吉良上野介の屋敷は、本所松坂町に移っていました。また、大石内蔵助ら赤穂藩の浪士たちが、屋敷に討ち入ってくるかも知れないということで、吉良上野介側も多くの武士を雇い入れて、警備を固めていたのです。
大石内蔵助や同志たちは、吉良邸討ち入りを今か今かと待っていました。中には、すぐにも討ち入るべきだという意見もありました。しかし、大石内蔵助は吉良上野介が確実に屋敷にいる日時に襲撃すべきだと考え、時期を待っていたのです。
そして、大高源吾が、茶会が12月14日に吉良邸で開かれるという情報を掴んできました。こうした茶会が開かれるということは、主人である吉良上野介が屋敷に確実にいることになります。そこで、大石上野介は、同志たちに討ち入りを12月14日深夜に行う旨を命じました。
1702年12月14日深夜、本所松坂町の吉良邸に、表門と裏門と二手に分かれる赤穂浪士たちの姿がありました。そして、身軽な者が静かに塀を乗り越え、屋敷の門を開けました。そして、大石内蔵助の陣太鼓を合図に赤穂浪士たちは吉良邸に斬りこんでいくのです。
忠臣蔵のクライマックス、吉良邸討ち入りの段、本編でぜひ楽しんでください。