中央区銀座7丁目 豊岩稲荷神社

猛将が祀った稲荷神社

明智光秀に仕えた武将がひそかに願いをかけた小さな神社

猛将が祀った稲荷神社

(話し手)声優 魚建さん

魚建

話し手は、ベテラン声優魚建さんです。 重厚感があるその声、雰囲気は、まさに魚建ワールド。 一度聴いたら忘れられない魅力の話しで、聴くものを一気に物語の中へいざないます。

銀座7丁目の路地裏のビルに小さな稲荷神社があります。この神社は、豊岩稲荷神社といいます。この神社を作った人物は、16世紀後半の戦国時代に活躍した安田作兵衛という武将でした。 安田作兵衛は、猛将として全国的に名前が知られていました。安田作兵衛が仕えた主は、明智光秀という名将でした。明智光秀は、日本を統一しかけた大名の織田信長に仕えていました。明智光秀は、織田信長の右腕として大いに活躍していました。 しかし、明智光秀はただ強いだけや賢いだけの武将ではありませんでした。ひじょうに優しい武将でもあったのです。 明智光秀は若い頃、仕える主君もなくて貧しい暮らしをしていました。その時に、明智光秀の妻・煕子は、自慢の黒髪を売って、明智光秀を支えました。このことに感謝し、明智光秀は側室をおかず、生涯妻の煕子以外の女性を傍に置くことはなかったのです。この当時、側室を置くことは当然でしたが、明智光秀は煕子だけを愛し続けたのです。 また、自分の配下の兵が戦で負傷したら、そのけがの心配をする見舞状を明智光秀は出しています。ここまで配下に心を配る武将は珍しい存在でした。このような明智光秀に仕えることは、安田作兵衛にとっても自慢だったのです。 いつしかこのようなお方が世の中を治めたらどんなに素晴らしいだろうかと安田作兵衛は考えるようになっていました。 1582年、明智光秀は備中(現在の岡山県)に出陣をすることになりました。中国地方の一大勢力である毛利家との戦いに向かう予定でした。しかし、明智光秀は軍を中国地方には向かわせず、京都に進軍させました。当時、京都の本能寺には明智光秀の主君である織田信長が滞在していました。明智光秀は織田信長に反逆し、織田信長を殺したのです。これを本能寺の変といいます。 この時、安田作兵衛は真っ先に本能寺に討ち入り、織田信長と戦いました。この戦いで安田作兵衛は負傷しました。 安田作兵衛は、明智光秀がいよいよ日本を治める日がやってくると確信したに違いありません。明智光秀のために戦いに戦い抜いた結果、重傷を負ってしまったのです。 この本能寺の変の時のけがで、安田作兵衛はしばらく戦えませんでした。 この間に、明智光秀は、織田信長の敵討ちを狙う豊臣秀吉との戦い(山崎の戦い)に敗れて死んでしまいました。安田作兵衛は、明智光秀の最期の戦いに参加できなかったです。 山崎の戦いに参加できなかった安田作兵衛は、生き残りました。この安田作兵衛が豊岩稲荷神社を建てたのです。安田作兵衛はこの神社に込めた願いとは何だったのでしょうか。      

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