千代田区皇居 伏見櫓
伏見櫓に込めた家康の想い
京都の伏見城で命を捨てて家康を守り抜いた武将がいた。
(話し手)落語家 桂竹千代さん
話し手は、日本の古代史にめっぽう詳しい噺家、桂竹千代さんです。なんと大学院で古代文学を勉強した異色の噺家。 噺家の誰よりも歴史を実直に学んだ桂竹千代の語り口は、庶民の人情を伝える際にも、偉人の物語を伝える際にも、知識に裏打ちされた自信を感じさせる。
現在の皇居は、昔は江戸城でした。徳川政権では徳川将軍が代々住んだお城でした。この江戸城を築いたのは、初代徳川将軍の徳川家康です。
徳川家康は、日本で戦争が続いていた戦国時代を終わらせ、徳川政権を興し、平和な世の中を築いた人物です。先に一度、戦国時代を終わらせたかに見えた豊臣秀吉の死後、徳川家康が権力を握りました。そのため、徳川家康は計算高い人物のように思われがちです。
しかし、実際徳川家康が権力を握るまでには、大変な苦労と犠牲が必要だったのです。
徳川家康は、豊臣秀吉の政権の中でも有力者の1人でした。しかし、豊臣秀吉が1598年に死ぬと、豊臣秀吉の子供である豊臣秀頼が幼かったため徳川家康に権力が集中します。
しかし、このままでは豊臣秀頼が徳川家康に滅ぼされてしまうと考えた豊臣秀吉の家臣だった石田三成たちから、徳川家康は敵と見なされました。
1600年、徳川家康も、自分たちを敵視する石田三成との対決を決意しました。しかし、ただ待っていても仕方がありません。そこで、徳川家康は、自分たちが豊臣秀頼のいる大坂から離れれば、石田三成は徳川家を討つために戦を仕掛けてくるだろうと考えました。そのため、奥州の会津にいる上杉家を討伐するという口実で徳川家康自身が大軍を率いて、大坂を留守にしようと考えました。
そうすれば、石田三成らの反徳川の武士たちが、徳川家康を討つために戦いを始めると考えたのです。
しかし、これには1つ問題がありました。徳川家康が全軍を率いていったら、石田三成たちが上方(現在の近畿地方を示す当時の言葉)をあっさりと抑えてしまい、徳川家康が上方に戻れなくなってしまう可能性がありました。そこで、石田三成たちに抵抗できる兵を残していかなければなりませんでした。そのため、徳川家康は、当時上方の拠点であった伏見城に兵を残していったのです。
この時、伏見城に残ったのは鳥居元忠という家臣と1800人の兵でした。鳥居元忠は、徳川家康が子供のころずっと従ってきた家臣でした。徳川家が三河(現在の愛知県の一部)の小さい大名家だったころから苦労をともに分かち合ってきた家臣です。その鳥居元忠に徳川家康は伏見城を守らせたのです。反徳川の軍は伏見城を大軍で真っ先に攻撃することが予想されます。だからこそ、徳川家康は最も信頼できる家臣の鳥居元忠に伏見城を任せるのです。残された鳥居元忠の運命はいかに。そして、皇居の二重橋から見える伏見櫓とはどのような関係があるのでしょうか。
今も残る徳川家康の想いとは。ぜひ、ご覧になってください。