千代田区有楽町駅 南町奉行所跡
名奉行 大岡越前
人情溢れる、名奉行 大岡越前。
(話し手)落語家 三遊亭遊かりさん
話し手は、女性噺家、三遊亭遊かりさんです。艶のある声は生まれ持った賜物。噺家になる前に経験した10年の様々な人生経験が肥しとなって、遊かりさんのお話しは、心の奥底に響きます。生まれ持ってのまさに話し家、噺家、三遊亭遊かりさんです。
徳川政権の首都であった江戸(現在の東京)で、庶民に人気だった町奉行が2人いました。
一人は、現在の東京駅八重洲北口の付近にあった北町奉行所の町奉行だった遠山金四郎です。
そして、もう1人は有楽町駅付近にあった南町奉行所の町奉行だった大岡越前です。この2人の町奉行は、時代劇でも人気です。
大岡越前は、1677年に江戸で生まれました。町奉行になるまでは、幕府の官僚として政治に携わっています。1717年に、8代将軍徳川吉宗によって、南町奉行に抜擢されました。
この大岡越前の町奉行としての裁き(判決)は、大岡裁きとして知られています、その大岡裁きを有名にしたのが、「大岡政談」という本でした。ここに、数々の名裁きが書かれています。
特に有名なのが、三方一両損や母親決めの話でしょう。三方一両損とは、このような話です。
ある日、左官屋の金太郎が3両ものお金を拾いました。この落とし主は、大工の吉五郎でした。吉五郎は、落としたお金はもう自分のものではないとして受け取りませんでした。一方の金太郎も、拾ったお金をもらうわけにはいかないとして受け取ろうとはしませんでした。
そして、金太郎と吉五郎は喧嘩になり、奉行所の調べを受けることになります。
大岡越前は、二人の話を聞いて、非常に清々しく感じました。そこで、大岡越前が1両足してお金を4両にした上で、金太郎と吉五郎にそれぞれ2両ずつ分けるように命じました。
金太郎と吉五郎は、本来であれば3両入るところが2両になってしまったので、1両の損。そして、大岡越前も1両出したので1両の損。これで3者が1両ずつ損してしまったので、三方一両損ということになったのです。
また、女二人が、ある子どもの母親と名乗って互いに譲らなかった件で、どちらを母親と決めたかという話は、本編をご覧ください。
しかし、この大岡政談や大岡裁きですが、その多くは創作だったとされています。では、大岡越前は実は名奉行ではなかったんでしょうか。そんなことは、ありません。
町奉行とは今でいうと、東京都知事と警視総監、さらには裁判官を兼ねた仕事でした。庶民を相手にする政治や行政を一手に引き受ける重要な役職でした。
大岡越前は、江戸の庶民から絶大な信頼を勝ち得たからこそ、名奉行として伝えられ、本や歌舞伎で業績を伝えられることになったのです。
では、大岡越前は町奉行として何を行っていたのでしょうか。そこには、庶民の活や命を守るために働いた真の大岡越前の姿があったのです。