豊島区目白
大奥のスキャンダル 感応寺事件
将軍のプライベート空間、大奥を巻き込んだスキャンダル事件
(話し手)落語家 三遊亭遊かりさん
話し手は、女性噺家、三遊亭遊かりさんです。艶のある声は生まれ持った賜物。噺家になる前に経験した10年の様々な人生経験が肥しとなって、遊かりさんのお話しは、心の奥底に響きます。生まれ持ってのまさに話し家、噺家、三遊亭遊かりさんです。
大奥とは、江戸時代に全国を統治した徳川政権のトップ 将軍が暮らした場所です。江戸城で政治を行う場所を「表」と言い、将軍が生活するプライベート空間を「奥」と言いますが、その「奥」の別称を「大奥」と言いました。
この大奥では、将軍の婦人である正室や側室、さらには正室や側室に仕える女官など多くの女性が暮らし、働いていました。この大奥で働いていた女性は、1000人とも3000人とも言われています。
この大奥に住める男性は将軍と夫人が生んだ男子だけでした。完全なプライベート空間であり、非公式な場所なので、大奥に関する資料などはほとんど残されていません。
ただ、大奥では女性同士の権力争いが行われていたという話もあります。中でも、将軍の世継ぎを生んだ夫人の発言権が高くなるので、夫人たちは世継ぎを生むことを最大の目標にしていきました。
こうしたいわゆる女性の園ですが、時代を問わず話題にはなりました。そこでは、一大スキャンダルも伝わっています。
1つは、絵島生島事件です。1714年、大奥で働く絵島という女性が、密かに大奥を抜け出し、役者の生島新五郎と密会していたという事件でした。この事件をきっかけに、大奥の綱紀粛正が進みました。
そして、もう1つの大きな事件が、感応寺事件でした。1830年~1840年にかけて、11代将軍徳川家斉の愛情をもっとも受けていた夫人は、側室のお美代の方でした。お美代の方の父親は、日啓という僧侶でした。お美代の方は、徳川家斉にお願いして、父親のお寺である感応寺を建立してもらいました。感応寺は、徳川家斉が大事にする寺であることで多くの人が参詣しました。特に大奥からの支持が篤いお寺でした。
この大奥からの支持を得たのは実はからくりがあったのです。
日啓はさらに裕福な寺にするためにあるアイディアを実行しました。そのアイディアとは、感応寺の僧侶や坊主として、美男子を採用することでした。多くのお金を寄付したら、美男子がその寄付のお礼をするというシステムを採用したのです。これが大奥の女性たちに受けて、連日のように感応寺には寄付が集まりました。
またお美代の方にとっても、大奥の中で影響力をもつことができるので、積極的に感応寺への寄付を勧めます。さらに寄付にはある工夫を凝らして、周りにばれないようにしていったのです。その工夫とはどのようなものだったのでしょうか。そして、感応寺のその後はどうなったのでしょうか。大奥の一大スキャンダルの顛末をどうぞお楽しみに。
しかし、