杉並区今川 観泉寺
生きてこそ。 一族を残した決断、今川氏真
かつての家臣である徳川家康に使える判断をした今川家の勇断
(話し手)落語家 三遊亭遊かりさん
話し手は、女性噺家、三遊亭遊かりさんです。艶のある声は生まれ持った賜物。噺家になる前に経験した10年の様々な人生経験が肥しとなって、遊かりさんのお話しは、心の奥底に響きます。生まれ持ってのまさに話し家、噺家、三遊亭遊かりさんです。
負けたときには潔く腹を切る、というのが多くの人が武士に抱くイメージだと思います。確かにそうした行動をとる武士もいました。しかし、それだけではありません。恥を忍んで生き残ることで家を残すという決断をする武士もいたのです。
その筆頭が、今川氏真でしょう。今川氏真は、今川義元という大名の子どもでした。
今川義元は駿河(現在の静岡県の一部)・遠江(現在の静岡県の一部)・三河(現在の愛知県の一部)を治めた大名でした。江戸幕府という徳川政権を打ち立てた徳川家康が仕えた主君でもあり、甲斐(現在の山梨県)を治め、日本一強い武将と言われた武田信玄も一目をおく存在でした。今川義元はただ強いだけではなく、法律を整備し、政治面でも他国の手本にされていました。
その今川義元ですが、1560年に上洛(京都に向かうこと)の途中で、尾張(現在の愛知県の一部)の大名である織田信長との戦いで敗れ、戦死してしまいます。これが、桶狭間の戦いと言われています。この戦いで今川家は大きく力を失っていきます。
今川義元の跡を継いだのが、今川氏真でした。しかし、今川家をまとめることはできませんでした。徳川家康は、今川家を去って独立し、今川義元の敵だった織田信長と同盟を結びます。
また、武田信玄が今川家に向けて軍を進めてきました。武田信玄は今川家とは親戚でしたが、弱った今川家の領土を攻め取ろうと考えたのです。この武田信玄との戦いに今川氏真は敗れ、関東の北条氏の許に逃げ込みました。もちろん家が滅亡したのですから、今川氏真は戦って死ぬべきだとか、腹を切るべきだという意見もありました。そのため、今川氏真を臆病者だと笑う人もいました。しかし、今川氏真はそうしないで、生き延びる道を選んだのです。
しかし、北条家も武田家と同盟を結ぼうと考えたため、今川氏真は京都まで逃げたのです。
ここで今川氏真は京都の公家(天皇家に仕える家臣)と人脈を築きました。もともと今川氏真は、蹴鞠(何人もが集まってボールを蹴りあい、地面につかないようにパスをつなげるゲーム)や和歌などに優れていたため、公家の間では人気になったのです。
さて、時代は移りました。今川義元を破った織田信長も謀反(家臣の反乱)に遭って殺されました。武田家も信玄が病死し、跡を継いだ武田勝頼の代になって滅亡しました。北条家も織田信長の後継者である豊臣秀吉によって滅ぼされました。そして、豊臣秀吉が死んだあと、日本の政治をリードしたのは、かつて今川義元に仕えていた徳川家康でした。
かつて自分に関わった人たちの立場が大きく変わっていきました。
こうした運命の皮肉の中で、今川氏真は、徳川家康の政権の中でどのように生きていこうと決断を下すのでしょうか。